Breton

銀座ラ・トゥール総料理長 清水忠明による糖質制限食品

シェフの紹介CHEF

糖質が気になる方へ

糖質を気にせず甘い物が食べたい!
こんな気持ちから糖質制限食品を作ろうと思いました。
何故なら、長年調理場に立ち続けた為か、ついに私自身が糖尿病と診断されてしまったのです。外食すれば主食の殆どが炭水化物(糖質+食物繊維)であり、甘い物が食べたいと思っても砂糖が沢山入った物ばかりでとても安心して食べる事が出来ませんでした。
他に糖質制限の食品もありますが、どれもあまり美味しくありません。
それならば、料理の腕を活かして自分で美味しいと言える糖質制限食品を作ろうと思い、主食のパン、それに付けるジャム、少しお腹が空いた時の為にクッキーを作りました。
糖尿病、妊婦、肥満、ダイエット、鬱と言った様々な理由で糖質を制限している方でも安心して食べて頂ける様に糖質の少ない食材を選び浅田飴のシュガーカットを使う事で甘さを調整しております。

清水忠明 銀座ラ・トゥール総料理長

清水忠明 銀座ラ・トゥール総料理長

1956年生まれ 東京都出身
大きな交通事故をきっかけに18歳で料理の世界に入る。24歳で単身フランスに渡り25歳で三ツ星レストランの最高峰「トゥールダルジャン」に入社 ドミニクブーシェ総料理長のもと26歳でソース担当のシェフに抜擢され、その後、副料理長を経て1984年トゥールダルジャン東京店出店と共に日本に帰国。トゥールダルジャンでの勤務は計12年に亘る。1993年には東京神楽坂にフレンチレストラン「ラトゥーエル」をオープンし独立 オーナーシェフとなる。1999年東京千駄ヶ谷にベーカリーレストラン「ブルトン」をオープン。2006年には銀座交詢ビルにて「銀座ラトゥール」をオープンさせ、いち早く糖質制限メニューの取り組みを試みる。ミシュラン上陸初年度から一つ星を獲得するなど「料理の鉄人」をはじめTV、マスコミに多数出演しフランス料理界の発展に貢献し現在に至る。

車も顔面も大破!失意のどん底でつかんだもの

それは突然の出来事から始まった。予備校に通う,普通の若者が、自動車免許を取った3日後、借りた車で正面衝突。車は大破し、自分も同乗していた友人も大怪我を負う。命が助かったのが不思議なくらいの大事故だった。

「顔面を100針以 上縫う大怪我でしたね。それより車が大破したのや友人にも怪我をさせたのやらで、責任問題、補償問題で針のムシロです。親もかばいきれない状態になりましてね」命をとりとめた喜びもつかの間、18歳の少年にとっては途方に暮れるばかりの出来事だった。命からがら、お先真っ暗状態の清水を、父親が一喝。「真冬の京都で頭を冷やしてこい!と言われましてね、ひとり京都に向かったんです。顔面 が傷跡だらけ、まるでブラックジャックのようです から、不審がられてなかなか旅館にも泊めてもらえない(笑)。実家に身元確認の電話を入れてもらってやっと泊まれたくらいなんですよ」化野の念仏寺や大原の三千院をひとり彷徨った清水が、はじめて人心地ついたのが、温かい湯豆腐を食べたときだった。「食べ物ひとつで、心細さや将来への不安も吹き飛んでこんなに心が温まるのかと感激したんです。そうだ、料理人になろう! 心が決まりました」

 

一振りの真剣と包丁6本抱えパリへ向かう

文字通り「人生のアクシデント」が料理人清水忠明を誕生させたのである。18歳で料理の道に入ったときから、パリでフレンチの修業をするのだと決め、6年間で300万円を貯めた。

「いよいよパリに行くとなったとき、親父が600年も前の銘刀を差し出しましてね、これを持っていけって言うんですよ。くれるのかと思ったら150万円で買えと(笑)」父は居合いの達人。剣には造詣が深く、格別 の思い入れのある刀を息子に 譲ろうというのである。断り切れずその銘刀を父から譲り受け、いざパリへ。「成田で足止めですよ(笑)。真剣一振りに包丁6本持って飛行機には乗れない。結局、機長預かりで乗せてもらって行きましたが、パリへ着いてからもびくびく。何せ、刀を持った日本人がうろうろしているわけですから、お巡りさんに呼び止められても許可証もなければフランス語も話せないから申し開きはできない。無知ほど強いものはないですよ(笑)」パリに着いて3日目で七区の一ツ星レストランに職を得た清水だったが、8月になるとバカンスシーズンで1カ月休めと言われる。「手持ちの資金は底をついていたし、突然、休めと言われてもねえ(笑)。仕方ないので父から聞かされていたパリの剣道連盟を探し当て、とりあえず道場通いをすることに」パリは思いの外、武道の盛んな 街。日本からやって来た武道家は大歓迎だった。

 

パリ五区の警察署長が紹介してくれた店

「おかげで、パリで居合2段に合格することができました(笑)。そんなとき道場で祝賀パーティの料理を任せると言われて、引き受けたんです」そのパーティでひとりの人物に出会う。これが清水のチャンスだった。

「名刺を渡されて、明日訪ねて来いと言われましてね。どうもポリスらしいとはわかったのですが、行ってみたらその人はパリ五区の警察署の署長さんだった。管内のレストランを紹介してやると言われて、ついて行った先がトゥール・ダルジャン!」武道が取り持つ縁だった。父が持たせた真剣が役に立ったのである。以来、移民局での労働ビザの受給手続きに同行してくれたりアパートを借りる際の身元保証人になってくれたり、署長は陰に日向に清水のパリ滞在を助けてくれる存在となった。トゥール・ダルジャンで1年間、死にもの狂いで働いた。そこに「チチキトク」の知らせが届く。1週間の休みをもらって帰国した清水を待っていたかのように父が他界。そしてパリへ帰った清水を待っていたのは、主任という地位 だった。
「ストーブ前を任され、10年間の労働ビザも取れ、給料は上がり、すっかり自信が付きました。こうなったらフランス中の三ツ星レストランを全部廻ってやろうと考えたのですが」そんな清水をトゥール・ダルジャンが手放すわけもない。ホテル・ニューオータニの東京店開店に合わせて本店から派遣されることになり、5年間のフランス滞在を終えることになる。

 

雪の日の転倒でわかった自分の進む道

帰国後、東京店に6年、パリへ戻って1年半、トゥール・ダルジャンでの仕事は12年を超えた。このままずっとホテルでの仕事が続くと思っていた矢先、それは東京に大雪が降った日のことだった。

「転機はやっぱり事故。今度は出勤するとき転倒して複雑骨折。その日は100人のパーティが入っていて、これは大変なことになったと血の気が引いたよ」俺がいなけりゃと気負ってみても体は動かない。ところが、「ゆっくり休んでくれ」とねぎらわれたことで清水の気負いが消えていく。「何だ、結局、俺は歯車の一つにすぎなかったんだ、代替えはいくらでもいると気づいたとき、自分の店を持とうと思ったんですね」思い立ったら実行あるのみ。骨折休暇の間に物件を探し、神楽坂で見つけたレストランの経営者となる。
「店をオープンさせたものの、俺たち夫婦と弟夫婦、弟子ひとりの5人体制。みんな素人だからハラハラドキドキの毎日(笑)。シャンパンを開けて床をびしょぬ れにしたこともありましたね。以来、今 日はシャンパンの注文がありませんように、と祈ったもんです(笑)」トゥール・ダルジャンのサービスとは大違いだが、味は本物。いつしかファンも付いてきて、雑誌やテレビで取り上げられるようになる。それからは大繁盛。オープン6年後には『ラ・トゥーエル』は本格フレンチの店として知られるようになっていた。昨年秋、千駄ヶ谷にベーカリーとフレンチの店『ブルトン』を開店、『ラ・トゥーエル』をフランス修業を終えた元弟子に任せて、清水は再びゼロからのスタートを切るのだ。「まだまだ突っ走っていきたいからね。一緒に働きたい仲間をもっと増やしていきたいと思うんだ。」

 

料理は一対一の真剣勝負第二幕の開演へ

神楽坂で築いたすべてを後継者に託し、新たに千駄ヶ谷に店を構えて10カ月。
清水の『ブルトン』は着実に浸透し始めている。

「オープンした初日から毎日ディナーにみえるご夫婦がいらっしゃるんですよ。初日にお出しした牛肉の赤ワイン煮が気に入ってもらえたようで。当初はそのご夫婦一組という日もありました。それから毎日通 ってもらってありがたいやら緊張するや ら。絶対に手は抜けませんから」レストランはいつもひとりの客から始まる。客との一対一の真剣勝負が楽しい。勝つか負けるか、答えはない。清水の店には近くの調理師学校の生徒たちが見学に来る。そんなとき、清水はいつも「料理は積み重ねの世界なんだ。くじけそうなときもあるけど、どんなときでも夢だけは捨てるな」と口を酸っぱくして言う。十代で味わったどん底の苦しみの中で、司馬遼太郎の『竜馬が行く』を読んだ。その中に『倒れるときは前向きに倒れろ』という言葉があった。以来、座右の銘となったその言葉を、明日の仲間となるはずの生徒たちに贈る。「俺もやっと人生のプレリュードが終わったばかり。本編はまだまだこれからだよ」ちなみに、父から譲り受けた例の銘刀は、件の警察署長に進呈してきたのだそうだ。

 

新たな運命の始まり、銀座ラ トゥール

ブルトンオープンから7年が経ち全面改装を予定していたところに、運命の電話が・・・
新たな物語が始まる事となる。今振り返ると、資本力もなく後ろ盾も無い我々には嬉しくもあり、また無理な話だったと清水は語る。銀座6丁目交詢ビル60坪、正直少し荷が重たかった。

「一度見て下さい!」と何度となく言われ、見に行くまでに5回断った。「もうこれ以上は誘わないから」と言われ、仕方なく見に行った。これが新たな運命の始まりだった。 弟と二人最初は意気込みも強く夢ば かり膨らんだが、現実問題開店資金となるとそう簡単に用意出来る訳も無く、何回も諦め掛けたと言う。最終的に無理と思い断りに行ったが、そこで待っていた言葉は「条件を合わせます、清水さんに賭けてみたいのです」と担当者に言われ決断する。「いつかは銀座で…」独立した時からの夢である。アイデアと工夫する事は昔から得意だが、簡単にはいかない。2ヶ月掛かりで色々なプランを立て、漸く契約に漕ぎ着けた。オープンは10月中旬予定。資金の事を考えると、これ以上遅らせ訳にはいかない。既に9月も何日か過ぎている。ブルトンを続けるかやめるか・・・、この時まで清水は悩みに悩んだ。最終的にブルトンは9月一杯でクローズする事にした。銀座に全精力を集中しなければ生き残れない。これが、清水が出した答えである。融通が利く性格ではない。弟も同じ考えだった。
オープン僅か1ヶ月。その間にブルトンのファイナルフェア-、閉店及び売却準備、銀座店のロゴ作製、印刷物、写真撮影、メニューレシピ、ワインリスト作製、スタッフ集めと山の様な仕事量だったと言う。スタッフ全員が揃ったのがオープンの2日前。予定より1週間程遅れたが、10月24日にオープンする事が出来た。
清水の目標は銀座で一番の店にする事、その思いを込め店名を「銀座 ラ トゥール(塔)」に
天高く登りつめる事をイメージし、螺旋階段をロゴマークにした。
派手な宣伝等は無いが、一歩一歩着実に階段を登りつめ近い将来必ず銀座の名店になる事だろう。

 

~ 新しいスタイルへの挑戦 ~

<運命を変えた1通の手紙>銀座交詢ビルにて「銀座ラ・トゥールをオープンし2年目に入った頃、ミシュランの1つ星を獲得した事がキッカケで1通の手紙とアンケートが届きました。

手紙の差出人は、ある大学病院の糖尿病医からで、「糖質制限食に興味がありますか?」と言う内容でした。その頃は、まだ糖質制限と言う言葉すら知らず、病院食の延長の様に感じておりましたので、即座に興味無しに丸を付け返信しました。「美味しいフランス料理は糖質もカロリーも関係ない」そう考えておりました。暫くして、昼の貸し切り依頼が入り「30名で一人13,000円ですが、主賓の方が糖尿病なので糖質制限メニューが出来ますか」との内容でした。経営者としては、是非とも取りたい貸し切りでしたので、即座に「出来ます」とお答えした事が糖質制限食を始めるキッカケでした。「何と調子の良い と今でも思いますが、キッカケはこんなものでした。早速、手紙を書いて指導を受ける事にしたのです。
<糖質を抑える為に> フランス料理に欠かせないのがパンですが、これはどうしても小麦粉なので糖質が高くなります。そこで、糖質の少ない大豆粉のパンを試みますが、大豆特有の臭みや食感の為に美味しく出来ませんでした。しかも、その時の大豆粉は1kg 10,000円とビックリするほど高いものでした。色々と工夫を凝らし苦労しましたが、ようやく糖質わずか1.5gの美味しい大豆パンが完成しました。実は、銀座ラ・トゥールの前に千駄ヶ谷でベーカリーレストランを営業しており、その時の経験がここに来て役立ちました。後にその店名を取り、糖質制限シリーズ名をBreton「ブルトン」と名付けたのですが、まさかここでその名前と経験が活かされるとは思ってもおりませんでした。何が役に立つのか分からないものです。「コース料理はと言うと、意外とフランス料理は糖質制限との相性が良く、パンを含めてもフルコースで10g程度の糖質に仕上がりました。ただ、先生からは糖質が低すぎるのでもっと上げる様にとの事で、ドライフルーツなどを付ける事で30gぐらいに調整しました。
<全く売れない糖質制限コース>当初は1週間前の予約に加え、同一テーブルで同じメニューを食べて頂く設定でした。料金は、13,000円と気軽に頼める価格ではなく、色々説明しましたが殆ど注文は取れませんでした。今でこそ「糖質」と言う言葉が当たり前ですが、その頃(2010年)は一般的にカロリーを摂る事で太ると思われており、またコース名も病院食のイメージでした。料理自体は、「何が糖質制限食なのか 味や見た目からでは全く分からず、これならば絶対に売れると確信しておりました。何故なら、他の糖質制限食は美味しくなかったからです。
<読売新聞の全国版>状況が変わったのは、大学病院の糖尿病医と読売新聞の全 国版に載った事でした。「糖質制限食とは何か」専門医の確かな裏付けに加え、先生からの紹介を得た事で予約が増え「糖質オフ」・「プリン体ゼロ」と言ったTVの宣伝なども追い風となり、予約の4~5割が糖質制限コースへと変わって行ったのです。その様な状況が続いたある日、20年間店に通って頂いている東大名誉教授(現、帝京大学 経済学部長)の先生に糖質制限メニューを食べて頂き、その趣旨を説明したところ、「健康増進・社会貢献」と言った観点から帝京大学と共同して取り組むべきであると認めて頂き、この事業化の研究を進めて行く事となりました。活動としては、家庭で出来る糖質制限料理講習会や専門学校での講習、商品開発、県農政部や農家との6次産業の活性化などに取り組んでおります。
<糖尿病と診断されて>以前から糖尿の気があったのですが、ついに糖尿病と告知されてしまいました。どこか今までは作る側と言う立場でおりましたが、幸か不幸か、これからは食べる側の立場も考える事が出来る様になりました。しかも自分自身のHbA1Cの数値も参考になります。食べたい物を自分で考え、自分で作り、自分の数値を参考に出来る。他社には無い強みと考えております。